浦和市くらしの博物館民家園へ行ってきました。6つの古民家が移築保存されています(他に旧浦和市農業協同組合三室支所倉庫と旧丸山稲荷社本殿もあり全体では8つの建物があります)交通アクセスは悪く、埼玉の浦和駅から更にバスで30分ほど揺られて到着しますが(片道260円)、入場が無料というのは嬉しいポイントです。
浦和くらしの博物館民家園は、享保13年(1728)に開かれた見沼田んぼのほぼ中央にあり、浦和市内に伝わる伝統的な建造物を移築復原し、生活用具などの民俗資料も展示公開している野外博物館です。
浦和市くらしの博物館民家園
開館時間 午前9時~午後4時30分
入館料 無料
休館日
毎週月曜日(祝日を除く)、
祝日の翌日(土日・祝日を除く)、
年末年始、特別休館期間
アクセス
JR「浦和駅」東口 国際興業バス 2番乗り場より
東川口駅北口ゆき念仏橋(約30分)下車すぐ
建てられたのは、江戸時代中期18世紀の前半と推定されており、桁行16.75m、梁間5.4mの寄棟造り、茅葺屋根の建物です。内部は向かって右に間口の半分以上の土間を取り、土間に沿って梁間いっぱいに板の間のヘヤ、その上手にオクと、その裏側にナンドを配した、いわゆる三室広間型の間取りです。ヘヤには囲炉裏を設け、囲炉裏に接し土間側に板敷きの床を張り出していて、このヘヤ後方には戸棚を造りつけています。唯一の畳敷きのオクには座敷飾りとして床の間と仏壇、戸棚が設けられています。
南面するヘヤにはシシマド(格子窓)があり、柱は1間ごとに直接礎石の上に立つこと、大黒柱は細く杉材が使われている等があげられます。現在さいたま市域に残されている民家では最も古いものだそうです。
さいたま市HPから文章は抜粋加筆させて頂きました。
http://www.city.saitama.jp/www/contents/1110069996825/index.html
代々農業を営んできた武笠家から旧浦和市が寄贈を受け平成6年度に移築復原されました。
寄棟、茅葺きの長屋門で、正面13.76m、側面4.55m。中央の間を戸口とし、右端の一間を仕切り床張りとしている以外は、土間となっており、正面中央の2本の門柱は平角で門構えを作っています。
通例の長屋門に見られる「立隠(たちがく)れ」(門構え部分が中に入り込む)はなく、また、門扉が両開きの引き分け戸で、右側の戸に潜り戸がついています。武笠家では、正規にこの門を開くのは婚礼や葬儀など特別の日に限られ、日常は別にあった通用門を用いたといいます。
また、この門は長屋門の役割を備えながら作業場となる広い土間を持っており、一農家の生活に即した機能性の高い建築といえます。天明3年銘(1783)の護摩札が確認されていること、また、土台がなく地覆(じふく)(蹴込(けこ)み土台)であることや梁(はり)の仕上げ、小屋組などからも江戸時代後期の建築と考えられ市内にいくつか見られたこの形式の長屋門の代表例といえます。
平成6年度に移築復原されました。穀類を保存する板倉で、間口2.94m、奥行き1.16mほどの寄棟、茅葺きの小建築です。土台をまわし、柱を長押と貫で固め、出(だし)桁(げた)を架けています。三等分に仕切り、開口部は落し板で、両側面と背面は横嵌板(はめいた)となっていて、多湿の時には密閉され、また乾燥期には通気性が良くなるなど穀物の保存に適したつくりとなっています。江戸時代の郷蔵(ごうぐら)などもこのようなつくりのものが多く、この地域に広く行われた貯穀方法を知る建物といえます。
さいたま市HPから文章は抜粋加筆させて頂きました。
http://www.city.saitama.jp/www/contents/1110073376171/index.html
中山道添いにあった江戸末期の安政年間に建てられた煎餅店が移築されています。安政年間は大地震が起こった年でもあります。間口に対して奥行きの長い宿場町の商家としての造りで通りに面した部分が店舗で、後ろに住居がありました。実はこの建物は移築前は切り妻の瓦葺きだったそうです。明治40年に瓦に変えた事が解体調査時に判明し、移築に際しては建築当時の姿に戻し、茅葺きの寄せ棟、正面の張り出しを大きくする出桁造りで、正面に瓦葺きの下屋が設けられています。
内部は正面を入り左に土間、大黒柱を境に右は八帖のミセと板の間の6帖に別れます。土間とミセの上には物置として使われた屋根裏があり土間からハシゴをかけて上がり下りされていました。
江戸時代から明治にかけて建てられたと見られる塗屋造りと呼ばれる建物です。屋根は切り妻の瓦葺き、正面に3尺5寸の下屋庇がついています。1階は南側が土間で、北側は板敷きと3帖の畳からなるミセ部分と、東側後方に4帖の板敷き部分があります。
箱階段がついており、それを上がると厨子(ずし)と呼ばれる2階があります。2階の窓は虫籠窓(むしこまど)が設けられ、軒裏部分には防火の為に粘土と漆喰で塗り込められたハチマキに覆われています。ハチマキには厚みがあるので2階の虫籠窓はそれを切り取るような形で設けられており、独特の雰囲気があります。外壁は移築前は漆喰に黒色が塗られたものでしたが、移築後は白色に戻されています。
また、わざと壁の一部が仕上げられておらず荒打ち、返し壁、砂ずりと壁の仕上がって行くプロセスを確認する事が出来ます。
野口家は代々大谷口村の住職をつとめた家で、この建物は庫裏(くり)として使われていました。同寺が明治初年に廃寺となり旧所在地に移築され住宅として利用、平成10年に現在の場所に移築されました。
建物の建設年代は解体時にに発見された床の間の地板裏等から安政5年(1858)の墨書名が発見されておりほぼこの年代の建立と考えられます。「大工芝村峰町」(現川口市峰)の墨書も見られました。桁行13.64m、梁間8.19mの寄せ棟造りの茅葺の建物です。
内部は向かって右に土間を間口の約3分の1以上とり左の床上部分には十畳の畳の間と、その後ろに十畳の板の間、その奥にはデイと呼ばれる八畳の畳の部屋とその後ろにオクと呼ばれる八畳の畳の部屋があります。土間部分は十畳の板の間から続く板敷き部分があり囲炉裏が設置されています。また、囲炉裏は小型のものが十畳の部屋の板の間に近い部分にもあり、オクの部屋には床の間と付け書院が作られています。
間取りは整形四間取りで、瓦で屋根を葺かれた下屋が正面、西側面に付けられています。
背面は下屋と同じ高さまで草屋根が葺かれています。
一見してわかるこの家の大きな特徴は屋根が大きく、背が高いことで、軒は梁の先端部分を造りだし化粧材として見せる「せがい造り」です。このように屋根を大きく高く見せ、なおかつ下屋を持つことにより正面の印象をより強いものにしています。
さいたま市HPから文章は抜粋加筆させて頂きました。
http://www.city.saitama.jp/www/contents/1110074927657/index.html